【レポート】第30回東京国際映画祭 連携企画「映画業界本音ガイダンス2017 ~現場ってホントはどんなところ?~」
【開催】2017年10月30日(月)、於 ランデック六本木5F カンファレンスルーム5A
長時間労働・パワハラ・低賃金・ジェンダーバランス等、さまざまな多くの問題を抱える日本映画界。今回は、映画業界で働くことを志す学生、そしてスタッフの本音を質疑応答形式で応える形で、浮き彫りにしていく企画です。当日の会場は超満員。会場の温度が上がるくらいの熱気の中、次々と来場者の方々から活発に質問が寄せられる、非常に有意義な集まりとなりました。(文責・上本聡)
ゲ ス ト
戸山 剛(映画プロデューサー):マウンテンゲート・プロダクション株式会社代表取締役。2008年マウンテンゲート・プロダクション設立、映画、テレビ等多数の映像制作や配給を手掛ける。深田晃司監督作「いなべ」「さようなら」「淵に立つ」を制作する。
伊野瀬 優(助監督):1983年生 カリフォルニア州大学の映画学部を卒業後、バイリンガルの助監督・通訳としてappleやNIKEのCM等、数々の映像作品に参加。他「ジョーカーゲーム」「シン・ゴジラ」「海を駆ける」など。自身で監督・脚本も務める。監督作に「もうしません!」。
金沢 明(車両部):1986年生。高校卒業後、一般企業を経て車両部として活躍。8年の車両部年数の中で、映画・ドラマ・PV等、数多くの現場を見る。
小笠原 翔(助監督):1993年生。大学卒業後、京都の東映太秦映像で助監督として活躍。昨年より東京に戻り、フリーランスの助監督としてTV作品に参加。
川原 杏奈(大学院生):1993年生 大学在学中より演出部・制作部として活躍。卒業後にTV制作会社勤務を経て、大学院に入学しシナリオを専攻。
上本 聡(映画監督・プロデューサー 独立映画鍋会員):1971年生。俳優、映画ライターを経て36歳よりインターネットTVで多数の番組を企画、演出。2013年より監督またはプロデューサーとして約40作品のホラー映画、DVDに参加。現在新作映画を企画中。
司 会
深田 晃司(映画監督・独立映画鍋共同代表)
監督作品に「ほとりの朔子」「さようなら」等。最新作「淵に立つ」が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点部門」審査員賞受賞。18年5月に新作「海を駆ける」を公開。
この企画が生まれたきっかけ
まず、この企画を立ち上げた独立映画鍋会員・金井塚潤さんの挨拶からスタート。
「僕は、以前制作部を経験したのですが、働いていた当時、現場の内部でなかなか(悩みを)相談できる人がいなかったんです。まず最初に入った現場がたいへんでした。ある後輩は、夢をあきらめて映画業界を去ってしまい、しかし同時に(学生で映画の現場に参加している)インターンの女の子は、映画界への夢を持って、目をきらきらさせていたのがとても印象的でした」と、これから業界を志す人に映画界の現状を正しく知る機会がなく、また悩みや情報を相談する場所もないことに衝撃を受けた経験を話しました。続けて「日本は他の国と比較して悲惨と言ってもいい状況ですが、よりよい状況を作っていきたいという気持ちです」と今回の企画を立案した経緯を語りました。
続けて司会の深田さんが「今回のこの企画は東京国際映画祭でやるに値するだけの高い公共性があると思います。日本の映画界は、働く人口の9割はフリーランス中心の世界。僕は…。2001年くらいに、ある現場に入って、毎日のように殴られる蹴られる、という目にあいました。もともと自分は自主映画を撮るつもりだったのでまだ良かったですが…。スタッフ志望の方が、挫折してやめていく姿も見てきています。そうならないために、皆さんには色々な選択肢があるということを知ってもらいたいし、事前に「これは危ないぞ」というサインをわかるようになってもらえれば、と思っています」と述べました。
ハンディキャップのある方でも
最初の質問は、ある男性から「ある方に、片方の足が不自由で、ある作品に関わっていた方がいると聞いたのですが…。私も片足はそうです。皆さんはこれまでハンディキャップを抱えていた方とお仕事した経験がある方はいますか」という内容。
それに対する解答として…。
上本:足を悪くされている方が俳優で出たいと言って下さったことがあり、杖をついて演じれる役で参加してもらったことがあります。
戸山:編集の部署の方で車いすの方がいらっしゃいます。映画は撮影だけ、現場だけではないので、参加することはできると思います。
深田:日本の現場はバリアフリーで対応できるような状況はまだまだ整っていない、と思います。今後の課題です。ただ、ポストプロダクションの仕事、現場に行かなくても美術や造型などの仕事、宣伝部の仕事などをすることもできます。ハンディキャップを抱えていてもできることはあるはずです。映画の仕事は、創ることから見せることまで多岐にわたっています。現場でしなければいけないことはごく一部です。いろいろな道はあると思いますよ。伊野瀬さん、アメリカはどうですか?
伊野瀬:僕の演出部の知り合いの方で、身体の全部の内臓の位置が逆な方がいて、さすがに現場は厳しいのですが、編集やCGのほうでがんばっていて、キャリアを積んでいる方はいます。
アメリカと日本の違い
次は、伊野瀬さんに「アメリカと日本との海外の映画の現場の違いについて教えてください。できれば現場の雰囲気から」という質問です。
伊野瀬:向こうは組合ありきで仕事をしているので、日本のように36時間連続労働のような無茶なことはないです。1日12時間労働、という規則の中で仕事をしています。
それを1分でも越えたら残業代が発生するというシステムの中で仕事をしていますので、守られている、ということはあります。しかしそれができるのはそもそもの予算が(日本より)大きいというのも理由としてあります。アメリカのほうが、現場の進行はゆっくりですね。日本の現場とは違います。日数も多いので、せかせかしていないです。
ただ、ファーストの助監督さんだけはせかせかしている。なぜかというと、スケジュールを超過すると彼らの給料はなくなってしまうから(笑)。時間内に撮影を終らせることが彼らの仕事です。照明ができあがってなくても「アクション!(撮影開始)」と言う(笑)。
そんな現場は見たことがありますね。実は技術ではアメリカに日本も負けていないです。ただ、それをやらせてもらえる時間とお金がないってことですね。技術はあるんです。
戸山:「予算も時間もないけどみんなでがんばって創りましょう」みたいなことは、やらないってことですか。
伊野瀬:だからこそ組合があります。
ここで書記で参加している映画鍋会員・舩橋淳さんが手を挙げてくれました。舩橋さんは大学卒業後,ニューヨークで映画製作を学び、長年海外で監督、映像の仕事をしてきた経験があります。
舩橋:アメリカで撮影したことがありますけど、(日本のような)根性論はないですね。日本でよくある「夜中てっぺん(24時)越えたけどみんなぶつくさ言わずにがんばれよ」みたいなのは…。みんな夜6時、7時になったら「帰って明日の朝10時からまたやろう」です。撮影日数が決まっていて、越えるようなら、スクリプト(脚本)をカットしなければならないんです。そして脚本のページに、それぞれのシーンの予算がいくら、と書いてあるんです(会場にどよめき)。プロデューサーはお金と時間のバランスを見て、場合によってはいちばんお金のかかるシーンをカットしたりすることもある。そういった考え方ですので、個人に「お前ががんばれ」のようなことはないですね。
金沢:日本と香港との合作が終ったばかりなのですが、痛感するのは…。日本って、役者を持ち上げすぎじゃないですか?もちろん役者の皆さんが重々すごいのは分かってるんですが。ハリウッドだと、まずスタッフの名前が先に出てくるじゃないですか。そういうことが変わっていけばいいと思うんですが、なかなかきびしいですよね…。
深田:伊野瀬さんと一緒に、この8月までインドネシアで撮影したんですが、俳優とスタッフがまったく同列の仲間で、そのほうが俳優さんも楽しいと思うんです。日本では俳優さんを壊れやすい美術品のように扱う傾向があるように思いますね。
それでも日本で映画を創るのは
次は「海外のほうが働きやすいのかなと思うんですが…。それでも皆さんが、日本で映画を創る理由を知りたいです。または、日本ではなく海外で本当はやりたかったというようなご意見が聞ければ…」という方が。
伊野瀬:国は関係なく、映画はどこでも楽しいです。毎日楽しいです。給料もらって人のお金でロケ地行けるし、きびしいこともありますが、毎日が新鮮な体験で、作品ごとに、体験できることがぜんぜん違います。こういう体験ができる仕事ってほかになかなかないと思います。仕事があればどこの国でも行きますよ。
戸山:そうですね、僕はクリエイターではないので、プロデューサーしかできないですが…。
人と一緒に関係性を作って仕事をしていくということ、ですね。僕は英語はできないですが、海外からのチームとお仕事をしたことは何回もあります。今がいちばん楽しいです。日本で仕事をすることに疑問を感じることはないですね。
上本:非常に限られた条件の中で、シビアに作品を創っています。しかしその作品を見てくれる方、ファンがいて、反響があることが何ものにも変えがたい喜びです。作品の予算管理も毎回自分でしていますが(スタッフ・キャストを)予算にあわせて拘束時間を短くするなど、常に気をつけています。
深田:今回インドネシアを体験して、映画は世界中どこでも創ろうと思えば創れるな、と思えました。自分は日本の文化圏で育ったというのもありますので、日本で撮りたい作品もたくさんあります。海外のほうが(条件が)いいから海外に行こう、ではなく、日本なりの現場の改善の仕方などを追求していくことができたらいいな、と思っております。
海外へのハードルは?
次は女性で脚本家を志望しているという方から「海外に行きたいんですけど語学などで、なかなか踏み出せないというハードルを感じたんです。海外のハードルを越えるきっかけになった理由を伺いたいです」という質問。
伊野瀬:実は最初はサッカー選手になりたいと思って、サッカーボール持ってイギリス行っちゃった、というのがあるんで(笑)。別のストーリーになると思うんですが(笑)。最初は英語も話せなかったです。映画の仕事が、どう始まったかと言うと、日本みたいに就職説明会もないんで、自分の好きな作品を創っているアメリカの会社にドアをたたいて「何でもいいから働きたいんだけど」とプロフィールを渡したんです。そして面接を受けさせてもらえて、そこから始まりました。行きたいところに行ったというだけです。サッカーの次に好きなのが映画、それで始めました。
舩橋:僕はニューヨークに10年住んでいたんですが、最初のきっかけは留学でしたね。
映画学校に通って向こうの制作会社にアシスタント・ディレクターで雇ってもらって修行時代を送ったんです。最終的にアメリカで自分が映画を創りたいと思うんであれば現場で
英語を話せなければいけない。映画学校では順繰りに自作の映画をするんですが、ナメられないよう撮影現場で指示をきちんと出さなければいけない。それで、だいぶ英語を勉強しました。「ナメられてはいけない」という、緊張感の中で勉強するのは良かったです。そういう環境に自分を放り込んで3年から4年自分で鍛えるのは、あとあと考えると良かった、と思います。
深田:インドネシアで映画を創り、英会話も勉強していますが、ぜんぜん英語をしゃべれるようになりません(笑)。優秀な伊野瀬さんのような助監督のおかげでなんとかなりました。
映画を創りたいと思ったら英語勉強しながら、なんとかなると思います。「英語ができないから海外に行けない」ということではないと思います。映画はチームで創るものなので適材適所で仲間がいれば…。
あきらめないことも大事
次は34歳の男性から「自主映画を撮っています。なんとか映画の道に進みたいんですが、上本さんは36歳で映像の世界で仕事をするようになったということですが、どうやって道を開いたんですか」という質問があり、僭越ですが答えさせていただきました。
上本:自分は大学を卒業して役者をやっていたんですが、なかなか役者の仕事だけでは生活できないまま、30歳になったんです。そこである方から「視野を広げて映像を創ることをやってみたら」と薦められ、自費で編集機材を購入して、モデル志望や役者志望の方たちのPVのようなものを創っていました。しかしやはりそれだけでは生活できず、にっちもさっちもいかないなと…。そんな時、制作と雑誌・WEBの記事の編集をしている会社の代表をやっていた先輩が声をかけてくれ、映像の撮影・編集と映画関係者の来日取材記事の執筆などを仕事としてはじめることができました。そして、自分が制作した映像を見た、WEBで映像配信をしている映像製作会社から声をかけていただきました。
先輩ともよく話し合いをして理解していただいて、その会社で映像専門で仕事をするようになったのが36歳です。その後、映画の世界にどうしても行きたくて。41歳から、ようやく映画関係の仕事を始めることができました。いろいろ辛いこともありましたが「どんなことがあっても絶対にあきらめない」といういう意志でやってきました。
ただ、36歳ではじめて映像業界に入ってくると、(ADなどの経験がないまま最初からディレクター採用だったので)明らかに周りからは浮いてます。良くしてくれる方もいましたが、そうでない場合もあります。そういった場合、喧嘩するのではなく「そこはおかしいのではないか」ときちんと相手と話して、納得してもらうということを繰り返してきました。また(仕事を広げていく上で)こう動いたほうが良いのではないか、こうしようというアンテナは張っていこうと思っています。
プロデュース能力の重要性
次の「どうやったら、プロデューサーになれますか」という質問を受けて…。
戸山:実は、名乗ること自体はできるんです。それを続けられるよう、努力することが必要かなと思います。
上本:かつて、ある企画に関わったときに予算の使われ方が不透明だった作品があって、その仕組に疑問を感じたことがありました。その後、あるホラー作品を手がけた際、自分はまだ、予算集めに長けているわけではないのですが、せめて予算管理だけはやらせて欲しいと手を挙げました。それから自分が監督する作品では、プロデューサーも兼任しています。
深田:自分の監督する作品以外でプロデューサーをやったことはないのですが、基本的には自主映画の延長ですね。はじめて映画を作ったのは21、22歳のときです。さっきお話した毎日殴られる蹴られる詰られるみたいなブラックな現場に1ヵ月半耐えたら、20万円のお給料がもらえたんです。そのお金で自主映画を創りました。当然、お金の管理なども自分でしなければいけない、というところからはじまって。経験していくうちに…。だんだんと自分の出すお金だけだと現場がつらいことを実感していく。スタッフにお金も払えないし。そこで次からは知り合いのプロデューサーに企画書を持っていって「お話を聞いてください」というところからスタートしました。現在もその延長です。「自分で創りたい作品を創るためには、相応のお金を集めるしかない」という気持ちでやっています。
戸山:プロデューサーと名乗ってはいますが、仕事の中に「お金の責任を取る」っていう部分があります。ですので自分は何年かに1回しかできない。そこで制作を請け負うラインプロデューサーで参加することが多いです。制作プロデューサーとして、お金を預かって、予算を組み立てスタッフを編成し、作品を納品する。
あるテレビドラマなどでは、アソシエイト・プロデューサーです。
ちなみにこの作品はプロデューサーが3人います。
テレビ局の社員、制作会社社員、企画を立てた私の友人、この3人ですね。彼らの手伝いをしています。アソシエイト・プロデューサーも仕事の範囲が広く、監督探しからはじめます。
ただ、最終的にお金の責任は負わないです。みなさん、最初はアシスタント・プロデューサーなどから参加したほうが良いと思います。
ここで来場者の皆さんに、プロデューサー志望の方に挙手をお願いしたところ、多くの方が手を挙げてくれました。
深田:心強いですね…。しかし、日本でフリーのプロデューサーをやるのは、とても大変です。日本だと季節の風物詩みたいに、コンスタントに映画プロデューサーが詐欺で逮捕されるという現象が起きます(笑)。自分が自作にプロデューサーのひとりとして参加しているのは、たとえば制作費のうち一部でも資金を自分で用意できれば、それだけ自分の発言権を増すことができるからです。たとえばフランスだと、フリーのプロデューサーへの支援が国としてきちんと準備されているんです。フリーで資本力がないプロデューサーでも「企画を申請して助成金が下りたら、それはその人の出資金にできる」という仕組みなんです。比較すると、そういった制度のない日本でフリーのプロデューサーを志す人は、かなりきつい。その人に資本力があり、鋼のような心を持っていないときびしいですね。だから大手企業の社員のプロデューサーが主流になる。今後監督をやりたいという方で自分のつくりたいものをある程度わがままに創りたいなら、プロデューサー的な能力も必要になってきます。もし数百万でも製作費を増やすことができて1日撮影日数が増えれば、それだけ演出にかけられる時間が増えるわけです。つまり、お金について考えることは演出について考えることと変わらないわけです。
カンヌ国際映画祭で受賞したら
次に深田監督と戸山さんに「『淵に立つ』でカンヌ国際映画祭の“ある視点部門”で受賞されてあとに、映画創りについて何か変化は起きましたか」という変わったことはありましたか」と質問。
深田:経済的にはすぐには変わりません。カンヌ国際映画祭は賞金というのはないので…、帰ってきて「次の家賃をどうしよう」という状況は変わらなかった。映画祭は作家性をバックアップするためのものです。そこで上映される、そこで賞を与えることで、その作家の創作活動を応援するんです。実際に受賞することで自分の監督作や企画に興味を持ってもらえるようになりました。プロデュースの面でも助かっていますし、周囲の方たちに企画について声をかけやすくなったというのもあります。カンヌで賞を獲ったということは、自分の1年後、2年後、3年後に影響が出てくるんじゃないかと思います。
戸山:僕のほうは大きな変化がありました。企画のキャスティングをするきに、役者さんの事務所の対応が手の平を返すように変わりました。電話すると「ああ、あの『淵に立つ』の!」と言われるようになりました。あれで得たものは本当に大きかったのではと思います。
新人には過酷な現状が
大学3年生で、今後演出の仕事をしたいという参加者から「最近あるVシネマの現場に参加したのですが、朝6時から翌日朝4時までで、それでノーギャラみたいな感じでした。そういうのは、映画業界ではざらなんですか」。
小笠原:そうですね。東映の太秦撮影所は夜24時までやると、その後最低8時間休まなければいけない、という規則があります。しかし太秦では言葉がきついのと怖い人達がいっぱいいるので…。まあとにかく8時間空いたからよしとするかという感じです。
深田:日本の映画人のハードル、下がりすぎだろって感じですよね。
川原:インターンとして参加したときに見ていたら仕事をやれる人ほど大変ですね。あるときから「お金が出ない現場は行くのやめよう」ってしたんです。自分がこういうことを言っていいのかどうかわかりませんが、人手を必要としている現場が多いと思うので「自分は最低報酬、これだけは欲しい」というのは主張していいのではないのかなと思います。
深田:ぜひ車両部として全体を見ている金沢さんのご意見を伺いたいです。
金沢:現場によっては変わると思うんです。Vシネマって予算が少ないので、それをメインのお仕事でやってる方たちだと「(長時間労働で無報酬を)そういうもんだからしょうがない」っていう発想ですね。
しかしそういうことを、ドラマや映画でやるプロデューサーもいるわけです。それは圧倒的に人が足りていないからなんです。制作部も美術部も準備が中途半端なまま現場にINするからそうなるんですよ。撮影までの期間で、十分に準備できる作品をやるべきだと思うんです。
質問した来場者:まもなく自主制作で作品を撮るので、その準備をしているんですが、なかなかうまくいかない現状があります。自分たちのできる範囲の中で創れるものを作るというのが、最低のボーダーラインなのかな、と思います。
金沢:自主制作って「仲間内で創りたい」という思いが強いわけじゃないですか。モチベーションで創っていくという。それが商業映画、ドラマの中で、お金を取るっていうことになると気持ちだけではできない部分が出てくると思うんです。「全員で根性論でがんばろう」っていうプロデューサーの気持ちもわからなくはないです。でもそれを押し付けるのは辞めていただきたいって思うんですよね。個人それぞれにモチベーションを持てる理由はあると思いますが、やっぱりおみんな共通で重要なのは「お金」ですよね。最低の保障を担保されなければ、その案件を断る勇気を持つことが必要です。
戸山:(できない仕事を)断ることは良い、と思います。実際に断られることも多いですし。私は予算と規模と内容を事前に検証して、大変なことにならないようにチェックしてから作品をやることにしています。突発的に何かが起こることはありますが、それ以外は事前にいろいろ起こらないように準備しています。いっぽう演出部は大変です。頭がよくないとできないです。演出部は、割と挫折する人が多いので「いい先輩につく」ことが演出部のキモですかね。出会いが大事ですね。
深田:いわゆる「ヤバイ現場」だと、いろいろあるサインの中のひとつに、車両部がいない現場ってキケンだと思うんですけど。そこらへんはどうでしょう。
金沢:話はよく聞きますけど「制作部の若い子が現場で運転もやる」っているのが今普通になっている。よく若い子が愚痴ってくるけど「休ませてもらえるように上司に言えよ。それくらい言う権利あるだろ」って僕が言うと、彼らは言えないという。上司から「俺も同じ経験をした」って言われると何もいえないんだそうです。それは押し付けであり、どうかなって思います。
川原:自分が関わった作品だと、学生を安く使うというのをひとつの技として考えている映画人の方たちがいる。無償でも「映画界につながりができる」と言われると「(それでも)行ってみようかな」ってなるじゃないですか。「断りにくいな」と思ってしまいますよね。皆さんが映画業界に一歩進む道やきっかけが、もっとあれば…。
深田:僕は20歳の頃、某アクション映画の照明ボランティアで映画界に入ったんですけど、37時間連続撮影を最初に体験したので…。
伊野瀬:僕はアメリカの制作会社で、メールボーイからキャリアが始まりました。仕事の内容は、郵便物をプロデューサーに渡す。インターンだから給料もない。そのなかで業界のコネクションを作りました。仲の良いプロデューサーが現れると、彼から、脚本が送られてくるリーダーと言う仕事があります。脚本をプロデューサーが読む時間がないので、僕がそれを読んで1ページに短くまとめる、という仕事をやっていました。そのプロデューサーからはじめての現場に誘われました。
小笠原:東映京都撮影所に大学の先生に紹介してもらって入れてもらったんです。その理由も時代劇と東映の鶴田浩二のやくざ映画が好きだったので「そういう場所に行きたい」と思いました。
深田:この業界、新人の頃には良い条件の仕事というのはそう簡単には見つからないと思いますが…。例えばボランティアだったとしても、良いボランティアと、悪いボランティアがあると思います。こちらの質問にきちんと答えてくれるか、こちらに状況説明などをしてもらえるかなどを見極めることが重要かと。自分が、ある低予算映画のメイキングで入って、撮影の最終日に「実はギャラがないんだ」と言われたことがあります。それは、うすうすわかっていたんですね。どう考えても現場に予算がなく、みんなヒーヒー言っている。しかし、やはりそれは最初に言って欲しかった。最初にだまし討ちみたいな仕事をよこすプロデューサーは「今後つきあっていてもそういうことしかしない人だ」と思っていいと思います。そこらへんを、見極めていくためにもフリーランスの人間は、自分で自分をプロデュースしなくてはいけないと思います。
良いことと悪いこと
IT関係の仕事をしているという男性から「実は映画の勉強をしていたのですが、大変そうな業界だなと思って、他の仕事につきました。内実を知らないんですが、いちばんヤバかった体験と、良かった体験を教えてください。また、良いことと悪いことの起こる割合と、続けてこられたモチベーションについてもお願いします」という踏み込んだ質問。
上本:自分が当時所属していた制作会社が受けていたバラエティー番組の企画で「僕の結婚相手を探す」というアイデアが出て、無理やり結婚させられそうになったことがあります(笑)。社長に「この企画をやるなら会社辞めます」と伝えたところ「会社にいてくれないと困るから、企画は中止する」という結果になりました。よかったことは…。長年会いたいと思っていた方たちに会える。自分が想像もしていなかったような場所に行ける。
それが嬉しく、またモチベーションになっています。
川原:いちばんしんどかったのは、大学の卒業式前に、すでにテレビの制作会社に入ったことがありベタで仕事についていたんですが…。休みがなく、卒業式当日朝の3時までに仕事をしていて、熱が出てしまい、39度で卒業式に出たんです。辛かったです…。逆にうれしいことは食べるのが好きでして。映画の現場に行って、ちょっと良いお弁当が出ると嬉しいです。うな丼が出たときは本当に嬉しかった。現場でおいしい弁当が出る確率は40パーセントくらいかな(笑)。
小笠原:同じ撮影所で制作部の男の子が、いわゆる童貞だったんですが、むりやり上司が「それなら風俗に行ってこい。そこに行かなければ帰るな。小笠原も一緒に行ってこい」と。彼は嫌がって電話に出ないようにしていたんですが、何度も上司から電話かかってきて「金出すから行ってこい」と無理やり行くことになり…。そういうことがありましたね。
良いことは、サード助監督だと俳優、女優と距離が近いんです。打ち上げのときに俳優さんとお酒飲んだのがいい思い出ですね。
金沢:かつて「現場で撮影中に制作部が誰もいなくなる」という、衝撃の現場がありました。それは別に楽しかったからいいんです。しかしスタッフ同士の仲が悪い現場だと困りますね。仲が悪い人同士の空気が広がって、現場全体がギスギスしてしまう。お金がなくても、和気藹々ならアイデアも出ますが、そうでないと作品にとって良くないのでは。逆に良かったのは、1日現場で20万円のギャラ、というのが海外の作品です。それからこの仕事やっていて好きな俳優に会える、好きな歌手に会えるというのは嬉しいです。
伊野瀬:現場の大変さを挙げたら、きりがないです。まず「フリーランスで給料が固定ではない」。だから仕事がないのがいちばんつらいです。僕はかつて、交際相手の家に転がり込んでいた。わかりやすく言えばヒモでした。とにかくお仕事がないのはブラック。今は、いい現場を見極める嗅覚もありますね。今は、仕事があるときは「ホワイト」、ないときは「ブラック」という気持ちです。
深田:フリーランスはある意味季節労働者ともいえます。フランスでは、映画業界で仕事がない期間、ある一定以上働いていない人には、仕事がない期間毎月20万円以上の失業手当が入るんです。日本にはその制度がないんです。そこで、自分でセーフティネットを作る必要があるんです。たとえば生活の基盤…、東京に住む家があるということが有利になる。地方出身者は一気に不利になってしまう。今の話を聞いて公的なセーフティネットを作らないと、と思いました。
戸山:必ずしも現場に入るのが近道ではなくて、ITベンチャーでも弁護士でもプロデューサーはできます。映画界にアクセスする方法は必ずあるんです。周りに監督志望の子が多いんですが…。ある程度までやってみて(監督の)声がかからなかったら、いったん別の仕事をしてお金を貯めたほうがいいのではないかとアドバイスしています。監督は頭の良い人が多いので、会社を興すなり、就職して金を貯めて映画を創る方法もある。必ずしも現場を続けることが映画を創る近道ではないと思います。残念なことはたったひとつ。自分が業界のことをよくわからないときにプロデューサーを引き受けてしまい、借金を背負ったことです。そのときは本当に大変でした。良かったことは、カンヌに行けたこと。私は妻と福岡で結婚し、福岡にいて東京に来たのが35歳。サラリーマン時代にやってきたことが役に立っている。出版社だったので、サラリーマン時代は本当に大変だった。今も妻と共働きです。でも辛くないですね。
舩橋:以前ニューヨークにいましたが、現場はほんとに楽しかった。制度がきちんとしていて…。逆にニューヨークに日本のテレビのドキュメンタリーの仕事が来たときは大変でした。僕はADだったんですが、そのときのディレクターが、我々は「マウンティング」と読んでいたんですが…。「お前より俺のほうがすごいんだぞ」とパワハラしてくるわけです。普通に「これやってくれ」といえばいいのに、「お前がどれだけできないか俺が教えてやる」というところから来るわけです。僕が「あ、これはできません」ディレクターは「ぜんぜんダメだな」と、そこからやっと具体的な仕事の指示にいくんです。…苦痛でした。ところがそのディレクターは語学の問題もあり、歯磨き粉を買ったり、食事を買ったりが現地でできなくて、そこを僕がようやく手伝った後、ようやく人間的にはじめて共感できる瞬間が生まれました。日本人はなぜかそういうことやるんですよね。
プロデューサーも監督についても思うのは…。映画学校の実習作品のときから、自分の映画を助けてもらえる人と、助けてもらえない人がいます。それって、実社会でも同じなんです。うまいことみんなを乗せて楽しくやれる人は、きちんとできるんです。「やる気」って大事だなと思います。
深田:22歳のときに装飾助手で、某作品で製作費5億円くらいの現場に入りました。毎日、殴られる蹴られるの現場がいちばん辛かったですね。殴る蹴るに加えて、ドロップキックされたことも。車で移動中、当時はナビがあまりないので、助手席で地図を見ていたら、声が小さいとまた殴られました。自分がもしスタッフ志望で現場に入っていたら、映画業界を辞めていただろうと…。それで、自主映画を創り始めました。
自分の現場については、なるべくブラックにならないようにしようと思ってやっています。僕は28歳の頃、『東京人間喜劇』という自主映画をほぼ自己資金と銀行からの借金で低予算で創ったのですが、現場は毎日徹夜でした。それ以降は、徹夜の現場はやめてお金もちゃんと集めようと徹底しています。遅くとも夜22時には撮影終らせようとか。それでもなかなか「完全に楽しい現場」というのは難しいです。しかし…今年の8月の撮影は、インドネシアのスタッフキャストが大半の、現地で撮影した作品でした。これまで体験した中で、もっとも楽しい現場でした。インドネシアもスタッフや俳優の組合は日本と同じでないんだけど、みんな基本、徹夜撮影はしないです。撮影終わりから次の撮影まで12時間休みが取られました。それから、何よりもまずみんな「楽しそう」です。日本だと“眉間にしわを寄せながら仕事”という感じがよくありますが、1ヶ月の撮影期間で、一度も怒鳴り声が聞こえなかった現場ははじめてでした。休憩時間になると、インドネシアのスタッフが誰からともなく歌い始めて合唱がはじまるんです。気づけばインドネシアと日本のクルーで歌合戦…。夢のような現場ですね。こういうのは、日本に存在しないのかなと思いつつ…。なんとかそういう環境を創りたいなと思っています。
若い方たちへのアドバイスは
ここで来場していた、俳優の古舘寛治さんが挙手。そして「若い方への、現場の見極め方で何か伝えられることがあれば…。ある作品で車両部のない現場があった。制作部の若い子が車両を運転することになっていまい…。夜の走行中に気がついたら車が滑り出しガードレールを飛び出し、車体がひっくり返って止まった。こういうことが起きることに対して『体制が悪いのだ』という意識がないんです。乗っていた衣装部の友人は怪我をして血だらけになった。しかし『無事で保険が降りる』ということだけで納得しているんです。
それは問題の本質を見誤っていると思うが、そういう意識の映画人は日本に多いと思う。まず現場を支える人間も意識を変えていかないといけないと思う。そういうことを見極めるには…」と質問を。
戸山:車両部は1日6~7万以上とギャラがかかるんです。予算が8千万から1億以上の現場では手配できますが、それ以下では他部門のスタッフで車両部を兼任してもらいます。しかし、脚本などから逆算して事故がおきないような現場づくりをしています。なるべく車を使わず、現地集合する、なども…。まず現場に入る方は、最初にプロデューサーに、怪我や機材に関して撮影保険に入っているか、と、ギャラの金額は最初に聞いていいと思います。
伊野瀬:ギャラの話も保険も最初にして、きちんとしていなければ、僕はその作品はやりません。
金沢:車両部を雇う予算がないから、別部門のスタッフがトラック運転する、というような状況だと普段乗用車を運転するのと感覚が違います。事故につながるときもあります。
そういう状況が起こりそうなとき、交渉してそれを回避するのもありだと思います。答えをはぐらかすようなプロデューサーは良くないですね。
深田:これらに加えるとたいてい撮影が長く、粘る監督は…。粘ってでも、いいものを創ろうとする監督の現場はたいていブラックになります。その気持ちはわかるんですが…。
障害がある場合は
ここで、言語機能に障害を持っている来場者の方からの質問。「コミュニケーションが難しい障害を持っていても…撮影現場での仕事、役者の仕事に就くことはできますか」。
戸山:うーん…。現場はコミュニケーションがすべてですが、何かあるかな。
深田:そうですね、筆記で意志伝達を行うとか…。補いながらできる仕事はあるのかなと。
戸山:最近の経験は、演出部の、ある子で…。優秀ですが、何かの症候群で睡眠障害で「寝すぎてしまう」という子がいます。現場に何回か来れないことがあって。人柄のいい子なのでこれまで、お願いしていましたが。最近の作品で、同じ現場で3回それをやってしまって。それだと作品の進行に影響が出てしまうので…辞めてもらいました。しかし、現場だけが仕事ではないので、その子と今後どういったことができるか話し合いですね。
深田:センシティブな問題だと思いますが、役者がやりたいんですか…。
質問者:そうです。
深田:俳優さんでやっていくのは、簡単ではないですね…。障害があっても、健常者でも役者という職業でやっていくのは難しいです。日本ではオーディション文化が、根付いていないので。ドラマや映画の大きい役になっていくと、オーディションではなく指名でキャストが決まっていく部分がある。それは私の映画でも同じです。私が若い俳優によく言うのは、役者を「いかに楽しく続けていくか」ということです。たとえば「自分で短編映画を創ったらいい」と思います。今はアイフォンで映画が創れるので。仲間たちと自分の個性に合った役を、自分で作って…。主体的に自分で作品を創っていくというのもひとつの方法論としてあると思います。全体として…。障害を持った方を現場に受け入れることが環境が整わないのは、日本は予算と時間が少ないので…。より多様な人々を映画の世界に受け入れていくため、創作環境のベースを上げていくことは今後必要になっていくと思うので、継続していきたいと思います。
女性スタッフから見た現場
女性の来場者の方から川原さんに…。「現場には、まだまだ女性が少ないと思うんですが。女性であることで、パワハラやセクハラはありますか。逆に『女性で良かった』と思ったことがあったら教えてください」。
川原:パワハラもセクハラもありました。下ネタを突然振られたりしました。私は思い悩むことはなかったのですが…。まず、現場に行くと、スタッフの方が代わりに重いものをもってくれたりはしました。女性であることでそんなにひどい思いをすること自体はなかったですね。それより、若い女性が新しく現場に入ってくることで、ひがんでくる年配の女性スタッフがいることが怖かったです。美術部で30代後半の女性スタッフがいたんです。その方の部下がイケメンさんのスタッフで私が「しんどいよ~」って顔して働いてたら、すごく優しくしてくれたんです。そしたら、その女性スタッフが口を利いてくれなくなった…。それは辛かったです。また、女優さんでヌードシーンの撮影で、繊細な現場なので、女性スタッフにそばについてほしいと言われることもあります。女性スタッフが現場には必要だと思います。
予算が潤沢なのは
最後の質問は「現在、世の中には数多くの映像、配信媒体などがありますが、どれがいちばん利益が出ると思いますか」。
深田:CMですね。お金が大好きだったら、映画には来ないほうがいいです(笑)。
伊野瀬:映画とCMでは、ギャラが倍違います。
戸山:やることも違いますしね。ある会社の仕事で、CMと映画では3倍くらいギャラが違っていたことがあります。
川原:CMの現場はお弁当がおいしい!
深田:ギャラはいいですけど、CMの現場のほうがいじめいびりが多い、という噂も聞きます。実際にはどうなのか分かりませんが。映画のほうがお金も時間もないけど「少なくともやりたいものをやっている」というのはあります。CMも、もちろんやりがいはあると思いますが、映画とは別種のストレスもあると思います。
活発な質疑応答によって、さまざまな有益な情報の開示と共有が行われたのではないかと思います。そのため、今回のレポートでは会話についてできるだけ詳細を記載させていただきました。私も今回の企画には、立ち上げ段階から参加したのですが、今後も、定期的にこうした集まりを行っていけたらと、思いを新たにしております。